2009年9月14日月曜日

クリスチャンになったいきさつ

クリスチャンになったいきさつ(其の一)
2007/06/21 05:56

WHY?なぜ、クリスチャンになったのか、といえば、それは、神様がそうしてくれたから、ということになってしまいます。HOW?どのようにして、クリスチャンになったのか、というと、それにはきっと、私の思いも及ばない神様のご計画が、そこかしこに隠されていたのでは・・・?と、思うのですが、私が現段階で、わかる範囲で、お話したいと思います。私は、本好きのこどもでした。しかも、結婚していなくてこどものいない伯母があって、盆と正月に会うたびに、本を買ってくれました。しかも、ナントカ全集みたいのまで、買ってくれ、以後、毎月、本が届きました。その中には、キリスト教信仰をバックボーンとする作品も、数多く含まれていました。おそらくは、人間がどうあるのが幸せか、という価値観を幾分その辺から嗅ぎ取っていたのではないかと思われます。クリスチャンは、自殺しちゃいけないのに、自殺する人もいる。という情報が、わりと早期にインプットされました。母の、若いころの文通相手の人がそうだったとのことでした。母は、その人からもらった聖書を所持していました。親戚の、お兄ちゃんが、東京で自殺した、クリスチャンだった、という話もありました。そのころ、漫画で得た知識で、自殺するとお葬式を出してもらえないと思っていたので、だから、仏教で葬式をしたのかなあ、それにしても、よくわからないなあ・・・、などと、考えていました。キリスト教について、よいイメージと、悪い、というか、不可解なイメージを持ちつつ、でもどこか、惹かれている部分があったように、今にしてみれば、思われます。いい感じの神様みたいなのに、何で自殺なんかするのかな、というふう。両親は、共働きで、夜勤とか、単身赴任とか、なかんじで、けっこう、じつは、親の愛情には、飢えていたようです。悪い親ではなく、祖母もいたので、特に不自由はなかったですが、こどもは案外、親の愛には、貪欲というか、必要所要量が大きいんじゃないでしょうか。その上、コミュニケーション不足から、あるいは、余裕のなさか、不器用さのゆえに、親には、話してもわかってもらえないというイメージを強く持っていました。友達に、先生に、その穴を埋めてもらいたい願望がありましたが、うまくいきません。誰も、私をわかってくれる人は、いない、と、次第にわかってきました。今では、少しずつなら、わかってもらえることもある、ぐらいに思っていますが、当時(中学ぐらい)のかんじでは、ともかく、不可能に思えました。生きているのがいやになって、自殺を考えました。痛い、苦しい、などもいやでしたが、自殺にどうしても踏み切れなかったのは、可能性の話として、もし、生きていたなら、何かいいことがある可能性が、ないと言い切れるのか?というところでした。このまま何十年と、生き恥を、さらし続けるにしても、もし、それを償って余りある大どんでん返しが、人生のおわりによういされているとしたら・・・?そう考えると、みすみす何もかも捨てて、よいものがあるとも思えない、死後の世界へ、あるいは何もない世界へ、引き返すことのできない世界へ、行くことは、できませんでした。仕方なく、毎日おもい体を引きずって、学校へ行き、図書室に入りびたりました。先人の知恵を、さがしてみようとおもったのです。さがして、さがして、見つからなければ、今度こそ、決心がつく時が来るのかもしれない、と思いながら・・・。・・・丁寧に書いていたので、長くなっております。あんまり長いのを一度にアップするのは、趣味じゃないので、今日はこの辺にします。


クリスチャンになったいきさつ(其の二)
2007/06/22 07:38

最初に、図書室で、目にとまったのは、ヘルマン・ヘッセの名言集みたいなやつでした。その中で、一番心に響いたのは、字句どおりは覚えていませんが、一日の労苦の終わりに、眠りが与えられるように、一生の終わりに、死が与えられる、・・・というような言葉でした。がんばって、生きていって、初めて、休みとして、ゴホウビとしての、死が与えられる、ということでしょうか。あるいは、ただただ、生きることはつらいが、最後には休めるんだよって言うことでしょうか。いずれにしても、少し、救われたような感じがしました。私と同じように、生きることがむなしいと感じている人、死が慕わしいと感じている人が、やはり現実にいるのだ、ということが・・・。しかし、それだけでは、死ぬのを待つだけの生であって、まだ、もっとほかにないのかと思いました。やっぱ、宗教なのかなあ、とおもって、宗教のところをさがしました。でも、いなかの中学の図書室ですから、ろくにおいてません。あったのは、ホテルとかによく置いてある、英和対訳の仏教聖典と、子供向けに書いた、聖書物語だけでした。仏教聖典は、大人向けだったのもあって、よくわかりませんでした。聖書物語は、たしか、旧約が3冊、新約が2冊に分かれたものでした。旧約は、3冊そろってはなかったので、いきなり新約の上巻から読みました。イエス・キリストについての知識は、ほとんどないに等しい状態でした。そういえば、母が持っていた、新約聖書を少し、その前に読んではいましたが、やはりよくはわからなかったんです。でも、イエス様が、弟子たちに、祈りを教えるところがあって、そこを読んだときには、これを祈ると、いい子になれるかもしれない、とおもって、しばらくその言葉で、祈っていたこともありました。たぶん、その祈りが、聞かれていた、ということはあると思います。普通に、ぐいぐいと、聖書物語は、読めました。すぐに、下巻が読みたくなって、借りて読みました。そして、その最後、イエス様が、罪びとの、罪の身代わりになって、十字架にかかって死なれた、ということが、実際に、私のため、私を救うため、私を、生かすため、であったとうことが、なぜだか、すんなりと、心に、スト~ン、と、入ってきたのです。ああ、生きていても、いいんだ。こんな、何の役にも立たない、誰からも必要とされていないような私だけど、イエス様は、その私のために、死んでくれたんだから・・・。その日から、イエス様だけが、本当に、私の友達でした。友であり、父であり、兄であり、母ですらありました。よく使う表現ではありますが、ほんとうに、わたしのすべて、です。その後にも、色々つらいことにも出会い、死にたくなることも、何度もありました。でも、そのたびに、わたしに代わって死んでくれた方のゆえに、やっぱり、死ねないって、思いました。死なないように、してくれた神様なんだから、いつかきっと、いいようにしてくれる、と信じてきました。基本的には、わたしは、自分にも、世間にも、ニンゲンにも、ほとんど絶望しています。それでも、イエス様が、わたしを、生かしてくれた以上、決して、このままということはない、と信じています。行きつ戻りつかもしれないけれど、これまでも、確実に、前に、進んでこれたのは、イエス様に、信頼してついてきたからです。わたしは、イエス・キリストが、神であり、この世を救ってくださる方である、と、信じています。それが、私の、生きる力の、すべてです。其の一、其の二ときましたが、このはなしは、ここでおしまいです。中3のとき、その本を読んでから、そろそろ30年近くになります(歳を計算しましょう)から、その間には、ほんとうにいろんなことがありました。つらかったことも今ではいい思い出、って感じです。これからは、この世の中を、神様がどう導いていってくれるのか、それを楽しみに生きていこうと思っています。

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